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弁護士 山﨑 慶寛

学生時代
昭和57年に神奈川県横浜市に生まれ、物心がついた頃にはサッカーに明け暮れており、今も折を見て仲間とサッカーをしています。
地元の横浜中学校・横浜高校に通学し、一貫してサッカー部に所属していました。
また、通学中に松坂大輔元投手の甲子園春夏連覇を在校生として目撃(全試合甲子園現地にて在校生として応援)したことを契機に、野球好きが染み付きました。
弁護士という職業への憧れ
弁護士という職業に興味を持ったのは、高校2年生の頃です。
その頃、仲間や先輩方と進路・将来の夢を語り合う機会があり、その際に当時憧れていた先輩が弁護士の凄さを熱く語っており、それで弁護士という職業に興味を持ちました。
そして、その頃たまたま私の曽祖父が裁判官・弁護士をしていたことを初めて知り、ますます弁護士という職業を強く意識するようになりました(なお、親族にアンデルセングループの創始者がいることもこの頃初めて知り、驚愕。)。
弁護士という職業は、人のために知恵を絞って戦う職業であり、それが人の幸福や人生に大きな影響を与えることも多い責任の重い仕事です。
そのために身に付けるべきスキルは果てしなく多く、深く、多岐に渡っており、成長を諦めなければどこまでもスキルを高めていくことができ、スキルを高めれば高めるだけより良いリーガルサービスを提供できる存在となれます。
私は、自分が頑張れば頑張るだけ人の幸福や人生そのものをより良いものにすることができるようになるという弁護士の仕事に強烈なやり甲斐を感じ、弁護士を志すようになりました。
弁護士になってからのこと
司法試験に合格した後は、東京での司法修習を経て弁護士の資格を得て、離婚・不倫慰謝料・男女トラブルに特化した横浜市・東京都内の法律事務所に勤務し、数多くの案件を手掛けました。
「どんな難案件でも解決方法を徹底的に模索・検討し、実践する」をモットーに、毎年100件以上の離婚・不倫慰謝料・男女トラブルに関する法律相談を受け、膨大な数の案件を解決してきました。
そのような毎日の中で、他の法律事務所では依頼を断られたような難案件であっても、相手との交渉の進め方・交渉戦略次第では早期解決が十分に可能であることを実感し、マニアックなまでに徹底的に交渉戦略を研究するようになりました。
その甲斐あって、不倫した側からの離婚請求、明確な離婚原因がない離婚請求、父親側の親権・監護権請求事案などの解決困難な案件も数多く解決に導いてきました。
また、一般的に弁護士が嫌厭しがちな難しい慰謝料請求案件や証拠の乏しい慰謝料請求案件、貞操権侵害事案なども数多く解決に導いてきました。
弁護士としてのプライド
弁護士法人レイスター法律事務所を開設した最も大きな理由は、同時処理案件数を制限することで一人一人のご依頼者にとって私自身が納得いくだけのハイクオリティなリーガルサービスを提供したいと考えたからです(勤務弁護士の立場だとどうしても同時処理案件数の自主的な制限には限界があります。)。
ご依頼者にとっての最善の結果を獲得するために最大限尽力することが弁護士法人レイスター法律事務所の使命であり、代表弁護士である山﨑慶寛の弁護士としてのプライドです。
弁護士法人レイスター法律事務所はご依頼者の剣となり、盾となって、共に法的トラブルの解決に向けて最短距離を進みます。
抱えている法的トラブル解決のため、弁護士法人レイスター法律事務所の知識と経験、そして熱意の全てをお使いください。
弁護士 福田 朱希

弁護士を志した理由
私は大学卒業後、一般企業に就職し、長らくOJT業務(アルバイト・パート従業員を含めた新人研修等の新人教育全般)に従事していました。
私が勤務していた会社には幅広い年齢層の女性従業員が多く働いていました。
私は、新人従業員の業務についての悩みごとを相談される延長で、業務以外のプライベートな相談もよく受けていました。
彼女たちの相談の中には、いわゆる「モラルハラスメント」による男女関係にまつわるトラブルの相談も多くありました。
「モラルハラスメント」という言葉は、今ではよく耳にすると思いますが、私が働いていた20年ほど前のその当時にはあまり一般的ではありませんでした。
その当時は、DVといえば一般的には物理的な暴力によるものを指しており、物理的な暴力ではない精神的なハラスメントの辛さは、他人に理解してもらいにくいものでした。
そのため、自分が配偶者やパートナーからされている酷いことが、今でいう「モラルハラスメント」であることや、その苦しさや辛さを理解してもらうことは難しいものだったと思います。
私は、私に対して、意を決して話しづらい内容を打ち明けてくれた彼女らの力になりたい…とじっくりと話を聞き、解決に向けてひとり奮闘していました。
しかしながら、交渉のプロでもなく法律の素人である当時の私には限界がありました。
当時は、そのような内容について「弁護士に相談をする」こと自体、大変勇気のいることで、また、弁護士事務所の探し方も分からずに苦労しました。
私は、ずっと長い間思い悩んでいた彼女らが気力を取り戻し、徐々に前向きになり、晴れ晴れとした表情に変わっていく様を、今でも忘れられません。
このような出来事を経て、私は、女性が話しにくいような内容のご夫婦間の悩みや男女間のトラブルについて、その解決に向けたお手伝いをしたいと強く思うようになりました。
そのため、私は、弁護士として、私に相談をしてくださった方々の平穏な日常生活を取り戻し、人生のリスタートの支援をしていきたいと思い、心機一転、働きながら通えるように夜間にも開講しているロースクールに入学し、弁護士になりました。
弁護士としての理念
「弁護士」というと、華々しい人生をイメージする方も多いかもしれません。
しかし、私の場合は決して順風満帆の人生ではなく、華々しい人生を歩んできたものではありませんでした。
私はこれまでの人生において、数多くの挫折を味わい辛酸をなめてきました。
だからこそ、私は、離婚問題・男女トラブルという苦しくて辛い問題の渦中にいるあなたの気持ちに寄り添っていくことができると自負しています。
どうか、おひとりで悩みを抱え込まないでください。
勇気を出してご相談してくださったあなたのお話をじっくりと伺い、あなたの抱える問題の解決のために全力を尽くします。
弁護士 丸山 将吾

お客様へのメッセージ
私は大学卒業後、新聞記者として、市井の方々の声に耳を傾け、その想いを記事にしてまいりました。
記者として大切にしていたのは、「聴く心」をもって相手の声を丁寧に受けとめることです。
例えば、台風被害にあった農家の方を取材した際は、単に被害状況やその悲惨さだけではなく、農家として、そして一家を支える父親として、どのような不安を抱えているのか、なぜその不安が生まれてくるのか──。そのようなことを深く掘り下げ、理解するよう務めました。
こうした記者時代の経験を通じて、さまざまな出来事の背後には、一人ひとり異なる複雑な思いや葛藤があることを実感しました。
法律相談にご来所される相談者様においても、表に現れる事情の裏側には、相談者様お一人おひとりに全く異なる想いや葛藤があるものと思います。 弁護士となった今も、この記者時代に培った千差万別の悩みの核心を丁寧に聴き取る「聴く心」をもって、さまざまな問題でお悩みの皆さまに寄り添い、皆さまのお悩みに真摯に向き合って、最善の解決を目指してまいります。
どうぞお気兼ねなく、皆さまの想いやお悩みをお聞かせください。
プロフィール
私は早稲田大学を卒業後、ブロック紙である株式会社中日新聞社にて新聞記者として活動してまいりました。
新聞記者として活動する中で、困難な状況に直面しながらも懸命に生きる多くの方々と出会い、その姿に触れ、心を動かされてきました。
中でも、2019年に千葉県を襲った台風で甚大な被害を受け、二代続いた農園の廃業という苦渋の決断を迫られたユリ農家の方との出会いは、私の人生を大きく変える転機となりました。
その農家の方は、台風によりビニールハウスが全壊し、出荷予定だったユリの代金数千万円を返金せざるを得なくなり、多額の負債を抱え、まさに先の見えない状況にありました。
当時、千葉県弁護士会などへの取材を通じて、台風などの自然災害により返済が困難となった場合、裁判所を通じて債務の軽減や返済条件の調整が可能な「特定調停」という債務整理の制度があること、しかしその制度が必ずしも十分に周知されず活用されていない実態を知りました。
私はその情報を農家の方にお伝えし、そのことが当該制度の利用に繋がり、農家の方が再起への確かな一歩を踏み出すお手伝いができました。
その時、農家の方から「本当に首の皮一枚つながりました。ありがとう」と涙を流しながら感謝の言葉をいただいたことは、今でも鮮明に心に刻まれています。
私は、この経験を通じて、法的な知識や制度が、時に人生を左右するほどの大きな力を持つこと、そしてその力を必要としている方々に適切に届けることの重要性を痛感いたしました。
「法的な解決の糸口が見えず、困っている方の力になりたい。」
この強い想いを胸に、私は弁護士の道を志しました。 弁護士となった今、一人でも多くの方の希望の光となるべく、日々精進してまいります。